著者:梨木香歩
出版:
新潮社発行:2019年7月29日
最近少しずつ読んでいるエッセイ集です。
いつもこの手の雑感は大体Twitterに書いてしまうのですが、
毎日夜中にだらだらとよく分からない感想文を垂れ流すのも、
あまり美しくないかという事で、こっちに。
雑感に美しいも何もないんですが。
過去に各所で発表されたエッセイをまとめた本なので、
短いエッセイがたくさん収録されています。
お陰でゆっくり少しずつ読むのに向いています。
+閉
小さい頃から「読書好き」を自認していますが、
基本的に創作物の小説しか読まず、
そもそも「エッセイ」という物を読む習慣がありません。
でも、梨木香歩先生の本だけは別です。
最初の出会いは『西の魔女が死んだ』でした。
それ以来、梨木先生の本は全部読む、というスタンスで、
事あるごとに集めてきました。
最初に読んだ梨木香歩先生のエッセイは『
春になったら莓を摘みに』。
エッセイだという事をあまり認識しないまま、
梨木香歩先生の本である、というだけで読んだ気がします。
そして途中で「あれ? エッセイだったよね?」と。
創作だと言われても納得するくらい、
私の中では小説との感触の差がありませんでした。
それ以来、小説もエッセイも何冊も読んでいますが、
今でもずっと梨木香歩先生のエッセイは、
小説と完全に地続きのものという印象は変わりません。
何故だろうと思っていたのですが。
まず文体から受ける印象が小説とエッセイで変わらない事。
そして内容の非現実さ。
エッセイの中のエピソードが「嘘」だというのではなく、
実際にこんな事が起こるのか? というか。
梨木香歩先生というフィルターを通すと、
世の中はこういう風に見えていて、
そのフィルターの中で小説が生まれている、というか。
そして私はその「梨木香歩というフィルター」が好きなんだな、と。
学生の頃から留学をしたりとフットワークが軽く、
驚くほど日本でも海外でも様々なところに出掛けられています。
それもかなり気軽に。
そういうエピソードも私にとっては非現実的な印象を受けるようです。
梨木先生は言葉の壁もなくご自身の運転する車で、
様々なところに出掛けて様々な人と出会い、会話をして。
恐ろしく世界が広い。
私には想像する事も出来ないくらいに。
本当に縁遠い私とは正反対のような生き方をされているのに、
何故か惹かれるというか、共鳴してしまうというか。
この辺りは謎。
梨木先生の本には小説でもエッセイでも、
目に見えないスピリチュアルな存在がよく登場します。
怖い話でも、ヤバい話でもなくて。
梨木先生自身になにか信仰があるという訳ではなく、
信仰について興味を持たれていて、
実際に大学では神学を学ばれたようで、
縁とか、予感とか、インスピレーションのようなものとか、
そういったものを身近に感じているというか。
説明しようとするとどうしても怪しくなってしまいますが。
行き過ぎると私もちょっと引いてしまうのですが。
梨木先生は、その手前ギリギリのところ、というイメージ。
私自身はそういったものを、
自身の感覚として実感する事はないのですが、
感じられたらいいなーとは思う、といったところでしょうか。
説明しようとどうしても(
私自身には信仰はありません。
父がクリスチャンなので小さい頃は教会も行きましたが、
信仰を得る事はなく逆に「私には無理だな」という結論に。
ただ他人の信仰を否定するものではなく、
私には理解出来ないけど尊重するべきものという感じ。
人の営みの中で宗教や信仰が必要になる事があるというのは、
なんとなく分かるような気がします。
それを自分が必要とするかどうかは別として。
そういった物への漠然とした感覚が、
梨木先生のものと近いのかな、という気がしています。
なんとなく。
結局のところないものねだりというか。
私の、こういう風に生きられたら、を、
梨木先生は体現されている存在なのかも知れません。
絶対に手が届かないけど、
想像をする余地くらいはある理想、というか。
いつもちょっと羨ましい。
だからこそその著作を読む事で、
その世界を少しだけ分けて貰える気分になるのかもしれません。
新型コロナでなかなか本屋に行けなかった事もあり、
他の諸々の本と一緒に梨木先生の本も3冊まとめて購入したので。
ゆっくり読み進めようと思います。
ここ10年近く(以上かも?)読書から離れていたせいで、
積ん読になってる本も、まだ購入してない本も、
たくさんあるので。
+閉